大学の教職授業で教えられてた「道徳教育」がおかしすぎる

2016.05.09

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現在、小中高の教員をしている人は誰しもが通ってきているであろう「教職課程」。

僕も教員を目指していた頃があり、中高の理科と数学の教員免許を所得しました。まあ、いろいろあって結局は教員になるのは諦めましたが…

参考:小学校から教員目指してて、教育実習行ってから教員になるのやめた理由

教職課程は約30単位も教職に関する科目を取得しなければならないため、さまざまな角度で教職のことを学ぶのですが、その中の「道徳教育」の授業を受けて日本の教育に対する考え方は”ヤバくね!?”って思ってしましました。

 

火傷を負ったお母さんの話

大学4年生の時、教職授業で”道徳教育”という科目を履修し、その授業では文字通り、道徳を教えるための方法を学びました。

 

ある日の授業のことです。

道徳を教えてくれている先生が、
 

「今から流す動画をみて、感じることについて感想文を書いてください。」

と、ある学校の道徳の授業の一面を見せてくれました。その動画の中で紹介されていた物語はこちら↓(※完璧に覚えていないのでニュアンスだけ。)

ある小学生のAちゃんがいました。

その子は学校の授業参観にお母さんが来るのをとても嫌がっていました。

なぜかというと、お母さんは顔に大きな火傷を負っていて、酷くただれていたからです。

Aちゃんはお母さんをクラスのみんなに見せるのが恥ずかしいといつも思っていました。

ある日、お母さんは娘に嫌がられていたのですが、姿がみたくて授業参観に行きました。

そこで、Aちゃんはお母さんを学校から引きずり出して、こう言いました。
 

「恥ずかしいから、もう学校にはこないで!」

お母さんは「ごめんね。」と言って、かえって行きました。

それから、お母さんはAちゃんをきづかい、学校へは行かなくなりました。

そんなある日、Aちゃんはお父さんからお母さんの火傷のことを初めて聞きました。

「Aちゃん、お母さんはね、Aちゃんがまだ小さな頃に家が火事になって、家の中に取り残されてしまったAちゃんを助けに燃えた家の中に飛び込んで行ったんだよ。そして、その時に全身に大きな火傷を負ってしまったんだ。」

Aちゃんはその時、初めて自分を助けるために負った火傷だということを知りました。

そして、お母さんに「お母さんごめんね。次の参観日には学校へ来てね。」と伝えました。

と、こんな物語を先生が読み終わった時、半数ほどの生徒たちがグスングスンと泣いていました。

この動画をみて、道徳教育を教える先生がこう言いました。

「みなさん、これが素晴らしい授業です。生徒がこんな風に感情を出して泣いている。こんな授業を道徳ではやらなければなりません。」

この授業を聞いている周りの大学生たちは、「おっ〜!」といった顔でメモを取っていました。

 

泣くことが正解なのか?感情を表に出すことが正しいことなのか?

この授業で僕が感じたことは現在の「道徳教育」の必要性です。

道徳とは本来、”社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。”という定義で考えられています。

では、もしこの考えに沿った教育が道徳教育なのだとしたら、上記で紹介した話はまずいと思いませんか?

泣いたり、感情をあらわにすることが”道徳心”だと置き換えているのです。これは本当にまずい。まずすぎるぞ…

道徳教育での一面的なものを切り取ってあげているのに過ぎないと考えている人もいるかもしれません。

ですが、これはたった一つの例であって、潜在的に”悲しい”→”泣く”というような感じに一人一人の感情に対して答えを作ってしまっているのです。

実際にはこんなことには答えはなく、こどもたちがどう考え、どう動くかってことを受け入れてあげることが必要なのではないかと僕は思います。

こんな教育を本当に続けることが必要なのでしょうか。

 

平成27年度から道徳教育の時間が増加。一教科として検定もあるらしい…

そんなことを思っていた矢先、”道徳教育が他教科に比べ軽視されすぎている”などの理由から時間の増加と最終的には道徳科という教科となる予定らしいのです。

参考:道徳教育の抜本的改善・充実

もう、この資料とか見ても”今までは生徒の好きにさせすぎた。それによって、いじめなんかが急増した。だから、それをちゃんと取り締まれるようなルールを身につけさせなければならない。”と言っているようにしか聞こえないんですよね。

これによって、いじめは無くなるかもしれないが、不登校なんかの生徒がどんどん増えたり、創造力や発想力を持たない”言われたことしかできないこども”が増える気がしてならない…

ああ、日本の教育はどっちへ向かっていくのか…

 

本来、道徳教育は地域、家庭が育むべきもの

僕はもともと教員をめざしていたのですが、その道に進まないことにして、今こうしてフリーランスで生きています。

そんな風な道を選んだ理由にも実は関係しているのですが。

特にこの道徳教育に関して言えば、学校の持つべき部分ももちろんあるでしょうが、本来は地域や家庭で得るものだと思うのです。

家庭で難しいところも現代は多いため、NPOなどの民間の支援もありますが、学校の持つべき役割ではないと僕は思います。
 

さらに付け加えるなら、学校の持つべき役割は地域性を無効力にして、本当に平等にすべき教育を充実させることが必要なのではないでしょうか。

例えば、歴史教育や同和教育、また宗教や国際関係などの分野ですね。

これらは地域性によって大きく左右されやすい部分もあるので、できるだけ公的な機関で教えることが必要だと思っています。

道徳的な見方、考え方という一つのゴール地点に向かうために40人というクラスは小さすぎる社会だということなんです。

 

一人一人の見方が変われば変えられる。

まあ、こんなことをつらつらとブログに書いていて、この作り上げられた教育システムをかえられるわけではないのです。

ただ、これを見て少しでも何か違和感を感じた先生、そして親御さん、こどもたちを取り巻く大人たちがいればすごく嬉しい。うん。

結局問題は、はじめの話にあったように”悲しい=泣く”ということを教員になる人たちのほとんどが教えられてきていることなんですよ。

だから、そこの意識さえ変えて、”悲しい=泣いたり、笑ったり、怒ったり…”って思っている人が増えればすごくいいなと。

そしたら、システムはどうあれ、現場にいるそれぞれの人たちがそれぞれの役割をきちんと果たせると思うんです。

たった一つの感情を彩るカリキュラムが腐敗してたら、全体が腐敗しちゃうんです。

”みんな違って、みんないい”んでしょ?





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このブログの運営者

矢野 大地 (やの だいち)


NPO法人ONEれいほく代表理事
月間10万人の人に読まれるブログ「自由になったサル」を運営。
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